命の灯を守れ!地元の電気を守り続けた男

日本の高度成長期を支えた送電網。それが急速に発達した昭和20年代。富士山を望む山村の山々に、次々と送電線の鉄塔が建てられた。大人に混じって荷物を背負って山道を進む子供がいた。ホクエイ電設の初代社長、故・北條輝義、その人だった。

男の学生時代

子供の背中には重すぎる碍子(がいし)だ。それを背負って、大人でも大変な傾斜のきつい山道を、一日何往復もする。運搬賃として、少しばかりの小遣いをもらえると、少年はほほ笑んだ。子供の頃から、少年は不思議と電気業界に縁があった。日本が戦争に負けた終戦後、日本中が一丸となって立ち直ろうとするなか、子供でも働くのが当たり前だった。

電柱屋が来ると村中を挙げて祭りになる

少年が育った村には、少し前まで電気が来ていなかった。皆が電気を待ちわびた時代。電柱屋が来ると、昼間から酒とスイカが出されて村中を挙げて祭りになる。自分の村に電気が通る事を知った村の若者が、仕事を休んで村に戻って来て電柱工事を手伝った。村に電気が通るのは、それだけ一大事だったのだ。電柱を建てる建柱車など、まだまだ存在しなかった。村の若者たちと力を合わせて、人力で穴を掘って電柱を建てる。もちろん、電柱を起こすのも人力だ。

この画像はイメージです

電線も値段が高く品薄だった当時、一つの村に使える電線の量は限られていた。電線と電柱を節約するためには、できるだけ一直線、最短距離で電柱を建てていく必要がある。しかしそうすると、土地を使う人からすればどうしても邪魔になってしまう。村の土地所有者たちは口を揃えて言った。「畑の真ん中でも、敷地の中でも、どこでもやりやすいように、好きなように電柱を建てて構わない」村人たちは、とにかく電気を一刻も早く引いて欲しいのだ。

やがて少年は青年となり運転免許を取得して街に働きに出ると、運送業の仕事に就いた。運ぶ積み荷は、なんと電柱。ここでも、青年は電気と縁があった。

社会人になった青年(左側)

毎日朝早くから夜遅くまで電柱を運んだ。高度成長期の真っただ中だった当時、住宅やマンモス団地が各地に次々と建てられていった。日本中が活気を帯びていた時代だから、電気も、そして電柱も足りないくらいだった。仕事は山ほどあった。青年は誰よりも早く出社して一番遅くまで残って人より多くの電柱を運んだ。

青年はそれでもやり続けた

何年もがむしゃらに電柱を運んだある日、たまたま仕事が早く終わった日があった。多くの運送業者が出入りする電柱置き場はごちゃごちゃだった。運送業者は運ばないと金にならない。他の運送業者もその日を生きるのに必死だ。どの業者も必要な電柱だけ積んだら、後は知らんぷり。電柱置き場がこうなるのも当然だった。置き場を片付けても一銭にもならないのは青年も同じだったが、そんなことはどうでもよかった。青年は、小さな頃から人を驚かせたり喜ばせるのが大好きだったから、置き場を皆が使いやすいように何とかしたいと、以前から考えていたのだ。

運送屋時代

青年はその日から何百本、何千本もある電柱を片付け始めた。仕事の合間を見て、少しでも時間があれば片付けた。時には、他の運送業者が来る前に。朝早く暗いうちから電柱置き場には青年の姿があった。上に置かれた電柱を20本くらいどかして下の電柱を向きを変えて種類別に揃えて置く。次の日には片付けた電柱の上にまた20本くらいの電柱がごちゃごちゃに置かれているから、それをまたどかしてその下の電柱を片付ける。そんな繰り返しだから、片付けるのには何か月もかかった。

どんなところにも、何をしても良く思わない人間もいる。「そんな事をして何になる」言われたこともあった。だが、雨の日も風の日も、青年はそれでもやり続けた。一銭にもならない作業を寡黙に続けようやく、それまで荒れ放題だった置き場が一変した。ライバルの運送業者たちですら使いやすい電柱置き場が、一人の男によって出来上がったのだ。

それを見ていた男がいた。電気業界の重鎮で、置き場も管理していた元請けの男だった。「凄い青年がいる」と噂を聞いて、電柱置き場を見に来たのだ。青年に男は言った。「電柱を建てる仕事があって、建てても建てても追いつかない。お前なら任せられる。機械はあるから、やってみないか。」青年には金がなかったが、妻から工面してもらい電柱屋を始めることになった。電柱屋に生涯を捧げた男の最初の一歩は、こうして始まった。

千葉にはまだなかった高所作業車

電車に乗っていたある日、車窓から青年の目に映ったものがあった。ビル建設ラッシュの始まった都内。乱立するクレーンの群れに交じって、一つだけ見慣れない工事車両を見た。高所作業車だ。千葉にはまだなかった。「これからはこういう重機の時代だ」一瞬でそう感じ取った青年は、会社に帰ってすぐに高所作業車の資格を取りに行った。当然、千葉では誰も取得していない資格、番号は0001だった。

悪用防止のため、一部にモザイク処理を施してあります

すぐには買えなかったが、会社を設立してからほどなくして高所作業車を発注した。当時は素昇り(すのぼり:業界用語。電柱の足場ボルトを利用して電柱に直接昇ること)が割と当たり前だった時代。電気工事業でも持っていないのに、と驚かれた。当時、人力に代わる機械として急速に発達した建柱車。その油圧システムの良さが電気業界内で広く知れ渡り、建柱車のシステムを流用して作られたのがわが国初の量産型高所作業車である。

アイチコーポレーションさんからいただいた記念品。初期の建柱車が映る

高度成長期の急激なインフラ拡大で、多くの電気事業者が数少ない高所作業車を奪い合う時代。大手の電気工事業者でもなかなか手に入らない。建柱車を通じて古くから付き合いのあった、なかば兄弟のようなメーカーの男に頼み込んで、苦労の末手に入れることができた。この男はこの後も、晩年になるまで色々と助けてくれた。

来る日も来る日も電柱に向き合い続けて数十年、青年は壮年期の男となっていた。苦労は当然あった。妻の具合が悪いときは、まだ幼い娘をトラックに乗せて現場を回ったこともあった。

京都にて

千葉の地質には誰よりも詳しくなった

電柱を毎日建てたり抜いたりしていると、いろいろなことがある。電柱屋という職業柄、毎日あちらこちらで電柱の穴を掘るわけだが、一日に掘る穴の数が数十本にもなることがある。この仕事も長くやっていると、掘る場所によって土質に違いがあり、その地域ごとに大体の特徴があるのが分かってくる。言うなれば、毎日、何十か所もボーリング調査をしているようなものだから、男は千葉の地質には誰よりも詳しくなった。

アースオーガでの掘削。土質だけでなくその土地の匂いまで分かる

千葉市に轟町という地名がある。鉄道や軍用車両の轟音が響き渡ったことからこの地名になったとも言われる。この辺りは元々軍都だったから、昔は鉄道連隊の設備があった場所だ。この辺りで電柱を建てようと穴を掘ると、土の中から赤煉瓦の建物の一部や固いコンクリートがよく出てきて、それが当時の面影を想像させる。昔の軍人が塹壕と同じような作り方をしたものらしく、硬くて壊すのが大変なのだ。壊すのに、今度は我々がここ、轟町に轟音を響かせることになる。

左は昭和5年 (1930年) 頃の轟町。鉄道連隊の倉庫や気球隊の倉庫などが立ち並ぶ軍都だった。画像は今昔マップより

反対に、昔、田んぼや沢だった土地を埋め立てて造成した場所では当然、地盤が柔らかい。そういった場所では、あらかじめ張力のかかる反対側へ電柱を傾けて建てておく必要がある。マニュアル通りに真っすぐに建てると、電線を張った後に何年かするとえらく傾いてしまうのだ。このように、場所によって地質の違いで電柱の工事方法もまるで違うものになるから、地質の違いを把握しておくことは大切なことである。

不発弾よりも怖かった

こんなこともあった。ある時、会社の近くで電柱を建てていると、自転車に乗った70代くらいの痩せた男性に声を掛けられた。「あそこに倒れている人、なんか息してないみたいだ。怖いから一緒に見に来てくれないか」 不思議と、昔から人にはよく頼られる性格だった。

だが、自分が行っても何もできないし、何も変わらないだろう。そもそも、千葉東警察署まで自転車で3分ほどの場所である。警察署に行けばいいじゃないか。とも思った。が、怖いから来てくれ、と子供のような事を言われたら断れまい。男はそう思いながらも、仕方なく二人で恐る恐る様子を見に行った

誘った男性は自分で誘ったのになぜか、男の後ろに続いた。不思議なもので、人間というものは怖いと思うと、ひとりでに背中を丸めて音を立てないように摺り足で歩いてしまうものだ。

倒れている男性まであと3メートルくらいのところまで近づいたとき、倒れていた男性が突然むくりと起き上がりこちらを見た。「うわあ」思わず声が出た。その声に驚いて、後ろに続いてきた男性と、倒れていた男性も驚き、みんなで声を上げた。そう、男は昔から声がでかかった。

倒れていた男性に話を聞くと、倒れていたのではなく、天気が良いので畑の脇で寝てしまったらしい。ともあれ、何事もなくホッとしたのは言うまでもない。ある時、電柱の穴を掘っていたときに不発弾が出てきたことがあったが、それ以上に今回のことには肝を冷やした。不発弾よりもよほど怖かったのである。

不思議と、男は昔から人の前を歩くことが多かった

背中で仕事をする意味

相当の昔になるが、現場で皆で大笑いしながら作業をしていると、一台の車が止まり、身なりのしっかりとした男性が降りてきた。苦情かな?と思った。時代が時代だ。作業していただけなのに高級車が止まって、みかじめ料を請求されたこともあるから、用心に越したことはない。

しかし、降りてきた男性は違った。「毎日通っていたけど、実に楽しそうに仕事されていて見てて気持ちが良い。うちの仕事も頼めないか?」突然、そんな話をされた。降りてきた男性は日本最大手の通信会社関係の幹部だった。今まで手掛けていた電力網に加えて、通信網までが仕事の範疇に加わった。それからは仕事の量も倍になり、忙しくもなったけど、社員にもっと良い生活をしてもらえるようになって嬉しかった。

人は前よりもむしろ背中を見ているものだな、と思った。背中で仕事をする意味を深く考えさせられ勉強になったのはこの時だった、と男は後に振り返る。男の脳裏には、少年の頃、大人に混ざって碍子を運んだ山道で見た、仕事をする大人の男のあの背中が、強烈な憧れと共に鮮明に蘇っていた。

常に先頭で仕事をしていたからこそ、後ろからは背中が見える。写真は76歳の頃

数々の災害

半世紀もこの仕事を続けていると、数々の災害に遭遇することになる。1986年(昭和61年)3月23日、関東全域で大雪が降って鉄塔が倒れ、数多くの電柱も倒れて停電が続いた。この時は神奈川まで行って、雪が積もる中、折れた電柱を新しい電柱に交換する工事を昼夜構わず数日間続けた。

1990年12月11日、今度は茂原で竜巻があった。この竜巻のスケールはF3と、日本で起きた竜巻としては戦後最大級だ。被害は甚大で、日本全体の竜巻の3年間分に相当するほどだった。停電件数は14,600戸、竜巻の通り道は長さ6.5kmにわたって家と車が飛ばされ、電柱も軒並み、なぎ倒された。これも電柱の建て替え工事を昼夜を問わず行い、停電被害を最小限に抑えることができた。

写真は2019年に起きた茂原市の水害応援に向かう建柱車

2011年3月11日、東日本大震災が発生。応援に行った他の業者は、目にした現地のあまりの惨状から鬱になり退職するほどの被害だった。この時は地元千葉でも大きな被害が出ていたため、千葉の復旧作業に心血を注ぐことになる。これだけの被害だから当然、復旧工事は数年間もかかったが、復旧作業を通じて迅速な停電復旧の大切さが改めて身に染みた。

閑静な住宅地に液状化で出た泥が積もる。千葉市美浜区にて
懸命の復旧作業は毎晩、深夜まで続いた

2019年9月9日に上陸した令和元年房総半島台風(15号)と2019年10月6日、令和元年東日本台風(台風19号)が相次いで千葉県を襲った。台風19号は倒れた電柱の本数約1,200本、台風15号に至っては約6,000本と、東日本大震災の4,000本を大きく上回る被害となった。日本各地から電気屋と電柱屋が終結し、東京電力や自衛隊を含め、官民合わせて多くの人々が協力して災害復旧に尽力した。5年経った現在でも一部では折れた電柱が残るほどの被害であった。

令和元年房総半島台風(15号)の被害の一部。モノレールも終日運休
倒木を撤去し倒れた電柱を建て替えて停電を復旧

命の灯を絶やすな

今、例に挙げたのはほんの一部でしかない。今まで、数多くの災害があった。災害が起こると、夜、寝ていても男は毎回、先頭に立って現場へと向かった。子供の頃から関わってきたからこそ、電気の大切さを誰よりも知っていたからである。

電気がなければ浄水場のポンプも動かず水も出ない。病院だって、医療機器で命をつないでいる人が大勢いる。医療機器は電気で動いているし、予備電源には限りがある。「命の灯を絶やすな」そう言うと、男は今日も暗闇の中、車を走らせた。

会社の入り口に刻まれた「感謝」の文字

いろいろな事があったが、会社を続けていくうちに多くの人との出会いがあり、大勢の人が助けてくれた。「仕事一辺倒で妻と娘には辛い思いをさせた」男がよく口にしていた言葉だ。男のそばには、いつも支えてくれた妻と娘の姿があった。

男と妻、従業員はたったの一人で始めた小さな会社が、今では千葉県下最大級の電柱屋となり、気が付けば人生のほとんどを、この会社を通じて地域の人々に捧げてきた。「これだけの長い間やってこれたのは、周りの人にすごく助けられたんだよ」と、男はよく言っていた。「地域に貢献するのも、その恩返しなんだ」とも。

会社の入り口に刻まれた「感謝」の文字。初代のその志は、社員たちの胸に今も生き続けている。

>ホクエイ電設は地域と共存する会社です

ホクエイ電設は地域と共存する会社です

地元千葉に45年、ホクエイ電設は地域に根付いた会社です。平時はもちろんのこと、事故や台風などの災害時に街の電力を守ることも、私たちの大切な使命であると考えています。

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